鯖街道今昔
新鮮な魚介を京へ運んだ「鯖の道」
青い海、新鮮な海の幸、歴史が息づく文化の都市
若狭の小浜は若狭湾のほぼ中央に位置し、昔からの古い港町である
このような小浜に「京は遠ても十八里」と言われている
これは、京へ鯖を運んだ道はそんなに遠くはないとの事であろう
鯖の道はいくつかのルートが考えられるが普通、朽木越えと言うのは
「小浜〜熊川〜保坂〜市場〜花折峠〜途中越〜大原〜出町」のコースを
普通指すと思われるがこの道は二十五里ある、一方針畑越えの方は
「小浜〜遠敷川を遡る〜上根来(かみねごり)〜峠〜小入谷〜川合〜梅ノ木〜
花折峠、途中、大原〜出町柳」で十八里あると言われているが今の一里と昔の
一里は異なるようである
距離の方は別にして、朽木越えの熊川、杉山、保坂には時代は異なるが
番所が置かれていたので、針畑越えは裏道ではないかと思われる
尚、保坂から今津、舟で大津方面へは鯖は運ばれなかった。
江戸時代の初め(1602年、慶長7年)の頃にはすでに若狭湾周辺
には八百艘以上の漁船、八千張り以上の魚網があったといわれ
小浜は連日の豊漁に沸いた。鯵、鰤、イカ、カレイなど、わけても
鯖は獲れに獲れて若狭から最も近い日本最大の消費都市であった
京都へ日に夜をついで運ばれていった。
鯖は回遊魚で春と秋に獲れる、大切なのは春鯖である
一塩(ひとしお)の春鯖を色が変わらないように竹の葉などで包み
空気の流通がよい平たい竹籠に入れて前後二個づつの籠を天秤棒で担ぐ、又籠を幾つか
重ねて背負う人もいたがその重量は40〜60kgもあった。
この様にして朝早く小浜を出て日中は日覆いをして夜を徹して歩き一昼夜で京の朝市に
かけたのである。
こうして若狭の鯖と江州の米で鯖ずしを作り、葵祭りで使われたと伝えられている。
このHPの解説及び説明の多くは大津市葛川梅ノ木町の山田芳夫氏の著書からの
引用です。氏は現在86歳でご存命です(現在大阪市在住)
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